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東海白樺山岳会ブログ

愛知県名古屋市にある山岳会です。仲間を募って山に登る会の運営、会員の登山記録、行事等の活動を発信しています。

新刊『定本 黒部の山賊 アルプスの怪』 ヤマケイ文庫



   
・・・・特に定本になった本はよく売れたようです。アマゾンのコメント90件は山岳書としては多い。
定本になって畦地梅太郎の版画の表紙を変えています。しかし文庫化にあたっては初版の表紙にもどされました。

 著者の伊藤正一(1923~2016)さんは三俣小屋の利権を林野庁と争っていた記憶しかなかった。本書を読んで、松本深志高校卒(旧制)で物理学者を目指していたこと、日本勤労者山岳連盟の創立者であることも知った。
 社会の仕組みをよく知っていて、権力にただ盲従、服従しない点は岩波茂雄と同郷の人だけはあると思った。信州人は反骨の精神が強い。したがって左翼のシンパになったり、日本共産党の支援もあったかに思われる。

 今度の読書で何でこんなに面白く読めたのか。山を始めた当初は折立から太郎平を経て黒部五郎岳へ縦走、折立から薬師岳を経て立山へ縦走、薬師岳往復くらいしか山歴はなかった。鷲羽岳は遠い山であった。
 本書に書いてあるような黒部源流に奥深く入ったのは2009年の盆休みに雲の平を経て読売新道を歩いたことだ。同年の9月には上の廊下を突破した。2010年8月には赤木沢を遡行、2013年の8月にはついに黒部源流を遡行する。
2009年9月 黒部川-上の廊下
2013年8月 黒部の山旅
 そして三俣山荘に宿泊した。この時はすでに同書が置いてあり販売もしていたように記憶するが、購入にまでは至らなかった。伊藤さんは2016年に死去されたからこの年はまだ存命だったことになる。
 要するに雲の平に象徴するような別天地を知ったら黒部の魅力は忘れえないものになる。伊藤さんは黒部の語り部たらんと本書を著したのだ。非日常の世界を平易な文章でわれわれ都会人に知らしめた。
 そうか、柳田國男の『遠野物語』『山の人生』も怪異な話だった。黒部源流に人生を送った山男・山賊らの物語なのである。
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[ 2019年02月14日 17:35 ] 山岳名著 | TB(0) | CM(0)

赤沼千尋『山の天辺』を読む

 赤沼千尋は黎明期の北アルプスの燕岳に登山小屋を建設した人である。『山の天辺』(昭和50年、東峰書房)は折々に書いた随想集の体裁となっている。扉には畦地梅太郎の版画「雪渓に立つ」「燕山荘」が挿入されている。序文は『たった1人の山』の浦松佐美太郎が書いた。
 今回特に書き残したいのは、「山男と遭難」の文に山小屋経営者ならではの秀逸なエピソードがあるのを見つけたからだ。
抜粋すると
「人生ことごとく運である。
山岳遭難もまた運である。」

「ことに雪山、それは荒れた日には、眼も開けられぬ恐ろしさに総毛立つ魔者となり、晴れた日と雪崩と言う武器で、音もなく襲いかかる狡猾な肉食獣となることがある。登山する人間にとって、このような山の災厄から逃れられる唯一の道は、天候などの条件のよい日に登山する以外はない。
 そして、早く登山したいはやる心を押さえながら、良い天候を待ち続ける忍耐心と、待ちに待つ時間がとれるかどうかということが問題なのである。
 冬山は夏山とは違った生き物である。景観も通路も異なり、気象に一喜一憂しなければ、あっと言う間に風雪に吹かれて道に迷い込み、或いは雪崩の巻き込まれるのである」

 黒部の一帯を映画に撮影した名古屋の登山家・伊藤孝一著『狸囃子』からの引用から
「流動を停止した雪崩は、人間の眼には解らないが、停止と同時に力強い圧縮を開始するものである。故に、雪崩れている最中か、又は停止直後に、雪の中から泳ぎ出るか、或いは助け出されルカでなければ、忌まわしい結果が生じる。以下略」
「その夜、(佐伯)平蔵が雪崩に衝かれたら、押されるままにしていてはならぬ。足は飛んだり跳ねたり、手は眼の前を掻いて泳ぐように動かし続けることを忘れるな、と戒めた語り草は、生新しい体験が生んだ不滅の金言として、炉辺に居並ぶ全員の心の髄まで染み込んだ。」

 次は百瀬慎太郎遺稿集『山を想えば』からの引用
「前略、雪崩れに遭った時はいちはやくスキーを脱ぐ事が肝要だと言われる。これが咄嗟の場合によく行われ得る事だろうか。山田二郎氏(筆者注:慶応大学山岳部OB,マナスル隊員、元JAC会長)もこの試みを直ちに実行しようとして、右足のスキービンディングを脱いだ瞬間やられたのであった。それほど雪崩のスピードは速いものであった・・・。」

 以上の引用の後で赤沼自身の言葉は
「こんなエキスパートでも責任感が厚く、良い人たちが雪山に消えて行ったのである。今時の装備と比べれば誠にプリミティブなものであったが、然し登山の熱意と鍛錬並びに事前の準備は大変なものであった。それにも拘らず遭難した。そこには何か抗し難い運命のようなものが感ぜられる。」
と結んだ。
 単に思い出話や自慢話に終始しないで山と人生を語った名著の予感がする。今のところ本書は古書でしか入手できない。(愛知県図書館の横断検索をかけても1冊も蔵書がなかった。)中公文庫、岩波文庫辺りが文庫本化して欲しい。
 他に登山史から忘れられたような伊藤孝一の親友でもある。伊藤は厳冬期の北アルプスを縦走且つ映画撮影行という破天荒な登山家だった。赤沼は黒部の精通者として百瀬慎太郎とともに案内人役で同行した証人である。
  
評伝 
 
 伝記小説





[ 2016年12月30日 10:16 ] 山岳名著 | TB(0) | CM(0)

「山の日」に考える~志賀重昂と『日本風景論』

今日は新たな国民の祝日となった「山の日」である。
山の日協議会の趣意書の冒頭には
「日本は国土の7割近くを山地がしめる山の国です。日本人は、古くから山に畏敬の念を抱き、森林の恵みに感謝し、自然とともに生きてきました。山の恵みは清流を生み、田畑を潤してわが国を囲む海へと流れ、深く日常生活とかかわりながら、豊かな心をも育んできました。
私たちは、愛する日本に、国民の祝日「山の日」を制定することを提案してまいりました。「山の日」は山の恵みに感謝するとともに、美しく豊かな自然を守り、次の世代に引き継ぐことを銘記する日です。山々が身体の健康や心の健康に、欠くことのできない国民の財産であることを再確認し、山との深いかかわりを考える日にしたいと思います。以下略」と宣言する。

志賀重昂は『日本風景論』の冒頭に
江山洵美是吾郷 という漢詩を掲げました。これはわがふるさとの山や川は洵(まこと)に美しい、という意味である。ここでいうわがふるさとは出身地の岡崎のみならず日本全体です。つまり日本の山を愛しましょうという提言でした。山の日を考えるにふさわしい人物です。
どんな人物だったのでしょうか。
文久3(1863)年12月25日 岡崎市康生町に誕生。明治元(1868)年 6歳の時、父・重職死去。 父は岡崎藩の儒学者で佐幕派。没後は跡取りが15歳未満ゆえに家禄は没収される。母・淑子の実家の松下家で育つ。 明治維新で父は失業と同時に死ぬ。そして収入までも絶たれる。幼くして大変な波乱に見舞われた。
幸いに、父の教え子の小柳津要人の援助で学校へ行けた。小柳津要人は1844年生まれの岡崎藩士でした。明治6年に丸善に入社。後に洋書輸入を手掛けて洋書の丸善の名声を得た人物。岡崎市の名誉市民にもなった。
明治7年(1874年)11歳より攻玉社で英学・数学・漢学を修めて同11年(1878年)に退学。 漢詩文の素養はこの時期の学習による。
明治11年 大学予備門(東大の前身)に進み、約2年間学ぶ。 明治13年(1880年)、札幌農学校に転じた。理由は家禄没収による経済難からか。札幌農学校は学費が安いことも理由。 「少年よ大志を抱け」で有名なクラークは去ったあとでした。その当時には東京大学と札幌農学校しか大学はなかったのですが、授業料も寮費も国庫で給付してくれる制度があったので札幌農学校へ進んだのです。明治17年(1884年)、17歳で札幌農学校を卒業 。その後、学校教員になるが上司とのトラブルで退職。丸善の支配人になっていた小柳津要人の世話で丸善に入社。英語力を生かして輸入書の翻訳を手掛ける。
明治19年(1886年)、23歳で再び軍艦「筑波」に便乗して南太平洋の諸島(カロリン諸島、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、サモア、ハワイ諸島)を10ヶ月にわたって巡り、 翌年に出版した『南洋時事』で、列強の植民地化競争の状況を報じて警世した。この著により、東京地学協会の終身名誉会員に推された。
世界中を地理学者として見聞すると日本の山河への愛着が高まります。「三河男児歌」は明治 22年 10月 1日のみかは新聞に掲載されたのが初出です。志賀 26歳の作です。 明治憲法発布に際し、薩長中心の明治政府だが三河人も元気を取り戻して頑張ろうという激励の意味と言います。
「汝見ずや段戸の山は六千尺。
絶巓天に参はりて終古碧なり。
又見ずや矢矧の水は三十里。
急湍石を噬みて矢より疾し」
とあります。東公園の碑文は「汝見ずや段戸の山は五千尺。雲巓天に参はりて終古碧なり」とあります。 推敲を重ねたものが碑に刻まれています。

明治27年(1894年)8月からの日清戦争。松野鉄千代と結婚。31歳で『日本風景論』を出版した。これは今も文庫本で読める。山岳書の古典です。 漢詩文で科学的な紹介文で書かれた。但し、種本があった。アーネスト・サトーらの編『日本旅行案内』 (明治14年)と、「登山の気風を興作すべし」の「登山中の注意」の部分はガルトン『旅行術』からだ。英語力抜群の志賀重昂はここを翻訳し、原典を明記しなかった。このため登山家でもなく探検家でもない志賀重昂の著書の謎とされていた。黒岩健『登山の黎明』で剽窃として告発された。しかし、これによって著書の名声は揺らぐことはなかった。ドナルド・キーン『日本文学史』近代・現代編によれば明治初期は漢詩文、翻訳の時代と変遷を描く。中期になって言文一致に移行するまでの近代化を急ぐ過渡期であった。著作権の意識もなかった時代である。英語に堪能な志賀重昂にとっては翻訳して紹介する意義が重要であったと思う。そしてこの部分が多くの若者を知識ではなく、登山の実践へと誘った。近代登山の啓蒙に貢献したわけだ。後に小島烏水が読み、登山に目覚め、明治38年の日本山岳会設立へと行くのは10年余りのことだった。名誉会員にも推された。

富士山を名山の基準とした。よほど富士山が好きなのであろうか、長男にも富士男と命名している。ちなみに死後出版された志賀重昂全集の編集者は志賀富士男氏になっている。

付録の登山の気風を興作すべし(岩波版P193)の、三、「水の美、奇は山を得て大造す」を引用してみよう。
水、山にありていよいよ美、ますます奇を成し、平面世界にありて看得ざる水の現象は、山にありてのみ能く認め得。水の最も晶明なる者、最も平和なる者、最も藍靛(らんてん)なる者は山中の湖これを代表し、水の最も最激烈なる者は山蔭の瀑布これを代表し、水の最も清冽なる者、最も可憐なる者は山間の渓水これを代表す。凡そ水の睡り怒り咲(わら)ふの状貌は、山にあらずんば竟に観るべからず。加之(しかのみ)ならず巌は水を承けて緑潤となり、水に齧(か)まれて奇態怪状を呈出す。水の美、水の奇は山を得てここに大造し、巌の美、巌の奇は水を待ちて始めて完成す。以上

沢登りの勧めのような漢詩文です。平面世界とは自分らが起居する街の暮らしのことで、街では水の美を見ることはできないが山ならば見られる。渓谷美は山の奥深く入って見られるの意。

志賀重昂自身も人生の波乱を才覚で乗り越えて、激動の近代日本を見聞しつつ、昭和初期に没した。こんな偉人が愛知県岡崎市の生まれだったとは。ちなみに犬山市を流れる木曽川の日本ラインも志賀重昂の命名になる。



[ 2016年08月11日 00:00 ] 山岳名著 | TB(0) | CM(0)

日本アルプス―登山と探検 (平凡社ライブラリー)

日本アルプス―登山と探検 (平凡社ライブラリー)日本アルプス―登山と探検 (平凡社ライブラリー)
(1995/04)
ウォルター ウェストン

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 明治20年代、英国の宣教師として来日したW・ウェストンは日本の山々に精力的に登った。そして明治29年に『日本アルプス 登山と探検』(英文)を著す。その冒頭にこう書いてある。
 「今日の日本において、世界はまのあたりに、国民的な威信をなおそこなわないで保ちながら西洋文明に同化適応する力を発揮している東方一国民の、類い稀な例証を見ることが出来る。その上、この注目すべき民族が、現在では予測できないほど将来豊かに発展することは、ほとんど疑問がない。この民族は、国民的な威信の向上のためには、恐らくどんな自己犠牲も払えるのである」 ウォルター・ウェストン(1861-1940)『日本アルプス 登山と探検』(平凡社ライブラリー)。
 こんな文を読むとこの人は一体日本に何をしに来たのか、と思う。布教活動を通じて日本人は簡単には平伏する民ではないことを悟ったに違いない。江戸時代に培われた日本文明が西洋文明を吸収消化しながら発展を遂げるに違いないと見たのだろう。確かに大きな犠牲を払った。しかし経済、文化、学問などは大きく発展し世界に寄与した。誠に的確な先見力と賞賛せざるを得ない。ただの登山家ではなかったのである。


[ 2014年03月09日 00:30 ] 山岳名著 | TB(0) | CM(0)

新編・風雪のビヴァーク (ヤマケイ文庫)

新編・風雪のビヴァーク (ヤマケイ文庫)新編・風雪のビヴァーク (ヤマケイ文庫)
(2012/10/01)
松濤 明

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 やぶ山と酒が大好きな医師U氏が居た。日本山岳会に誘ってくれた。十数人を集めてはU氏のお宅で奥さま(医師)の手料理と酒盛りを楽しんだ。そんな仲間内で伊那の小川路峠へいこまいか、と話がでた。何で行くの、『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出て来るんだよ、と教えてくれた。ガイドブックではなく、名著の名文に惹かれての登山もあり、と覚えた。ダムの湖底になる前に徳山村戸入の増山たづ子さんちに上がり込んで地の豆腐を食べたのもこの仲間だった。
 長い付き合いだったが、2009年5月新緑の冴える頃、ガンの治療空しく他界された。
 この本を見るとそんな思い出がよみがえる。


[ 2014年02月12日 06:16 ] 山岳名著 | TB(0) | CM(0)

日本風景論 (岩波文庫)

日本風景論 (岩波文庫)日本風景論 (岩波文庫)
(1995/09/28)
志賀 重昂、近藤 信行 他

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愛知県民として、何より、岡崎市出身ということに親しみを覚える。偉大な地理学者として岡崎東公園に立像や段戸山の歌碑を建てて顕彰されている。明治27年の発刊以降、多くの青年を啓蒙し登山家を育てた。15版まで増刷を重ね、多数の読者を獲得した。その中の一人、小島烏水は日本山岳会を創立した。日本近代登山の産みの親と言ってもよい。日本の山に理学的解説を加え、漢文的な文体で著わした。


[ 2014年01月28日 08:28 ] 山岳名著 | TB(0) | CM(0)

新編 単独行 (ヤマケイ文庫)

新編 単独行 (ヤマケイ文庫)新編 単独行 (ヤマケイ文庫)
(2010/11/01)
加藤文太郎

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今じゃ、山岳名著の白眉と言ってもいいだろ。戦前は豊かな層の娯楽だった登山。社会人の登山家は低山歩きの範囲だったと思う。造船会社の社員という不遇な生活環境と神戸という地理的な不利の中で、山への情熱を保ち、技術を高め、ついに厳冬期の北アルプスを縦走する夢を果たす。ふるさと兵庫の氷ノ山、扇ノ山などの低山も愛した。地下足袋、甘納豆、など参考になる話も多い。要するないない尽くしでも知恵と工夫で解決していった。単独行ゆえの孤独から紡ぎだされる、ややナルシシスムな文体が読者を魅了し多くのファンをもつ。
 根っからの山好きの自筆遺稿が編纂されて『単独行』と題されて発刊された。二見書房版他、いくつかの本がある。2010年ヤマケイ文庫に収録。

[ 2014年01月19日 00:23 ] 山岳名著 | TB(0) | CM(0)

日本百名山 (新潮文庫)

日本百名山 (新潮文庫)日本百名山 (新潮文庫)
(2003/04)
深田 久弥

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 今更日本百名山でもあるまい。そう思いながら30山ほど未踏がある。多くは東北と北海道であるが、北アルプスの五竜岳も残った。北関東も多々ある。阿蘇山も衛星峰の烏帽子岳に登ったが最高峰はまだだ。そんなわけでたまにこの本を読むことがある。昨年夏の鷲羽岳は充実の山旅だった。この本のお陰で中島正文の業績を知ることができた。若いときの登り方はひたすら山頂を踏めば満足だった。長い山登り生活を経てくると山と人のかかわりにも関心が出てくる。数を稼ぐことのみに急いで来たがゆっくり楽しみながら登りたいものだ。



黒部の山旅Ⅰ
黒部の山旅Ⅱ
黒部の山旅Ⅲ
黒部の山旅Ⅳ 鷲羽岳の山名考察
黒部の山旅Ⅴ
[ 2014年01月18日 00:25 ] 山岳名著 | TB(0) | CM(0)
プロフィール

東海白樺山岳会

Author:東海白樺山岳会
 1962(昭和37)年に名古屋市交通局の有志数名が設立。その後一般社会人の親睦の登山クラブとして継承されてきた。40歳代から80歳代の男女約24名(2016年11月現在)が年間を通じて計画的に実践。
 三河、美濃、鈴鹿の日帰り登山、岩登り、沢登り、山スキー、冬山以外にも夏山縦走も楽しむ。皆で誘い合い日本百名山、日本三百名山を目指す会員もいる。個人の志向でぎふ百山、信州百名山、富山百山、一等三角点のピークハントを目標にする会員もいる。
 例会は第1水曜日(都合で火曜日になることがある)に名古屋市中区生涯教育センターで夜7時から8時30分まで。会合は山行への参加を募る重要な場なのでなるだけ出席を。欠席者にはメール、郵便、ファクスで伝達。会報も年間4回発行。総会(事業報告、役員改選、会計報告、規約改正など)は4月に実施。
 イベントは1月の新年会(町)新入会員の入会に応じて新人歓迎会(山で)、年末は忘年山行(1泊2日)、登山、岩登りの初心者の指導練習も適宜練達者のリードで実施。
 会費年間3000円。入会金2000円。別途山岳共済保険加入のための岳連会費と保険料要。現在会員募集中。問合先090-4857-9130西山まで。メールフォームからもどうぞ。

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