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東海白樺山岳会ブログ

愛知県名古屋市にある山岳会です。仲間を募って山に登る会の運営、会員の登山記録、行事等の活動を発信しています。
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山と溪谷2020年11月号 10/15発売

 特集
〝日帰り〞登山を見直す
本特集のテーマは「日帰り」「東京・名古屋・大阪周辺」。なぜ、日帰り登山で、なぜ3都市近郊なのか。現在の時勢を考慮して、これからの登山を考える。

本特集で取り上げるコースの基準

公共交通、マイカーどちらもあり!
特別な技術は不要。体力があれば楽しめる!
お手軽コースもがっつりコースも!
名古屋・ 大阪偏
アプローチに便利な道路の伸長が続く東海。登山でも公共交通を利用しやすい関西。名古屋駅と大阪駅間の距離は約140㎞程度で、両都市の登山者に共通する日帰りの山も多い。ユニークな景色が広がる名古屋・大阪周辺の山へ。
名古屋・大阪周辺
・[解説]日帰り圏内はどこまで?
・[ルポ]鈴鹿の秘峰、イブネとクラシを訪ねて
・[コースガイド]名古屋・大阪周辺25コース
愛知県・猿投山/長野県・戸倉山/愛知県・三河本宮山/
長野県・南木曽岳/愛知県・三ツ瀬明神山/岐阜県・笙ヶ岳と養老山/
岐阜県・高賀山/奥美濃・三周ヶ岳と夜叉ヶ池山/岐阜県・猪臥山/
福井県・荒島岳/滋賀県・霊仙山/
滋賀県・武奈ヶ岳/鈴鹿山脈・御池岳/
滋賀県・太郎坊山/京都府・峰床山/京都府・大文字山/
三重県・筆捨山と羽黒山/室生山地・倶留尊山/三重県・姫越山/
大阪府・岩湧山/和歌山県・高野三山/奈良県・稲村ヶ岳/
氷ノ山山系・氷ノ山/兵庫県・高御位山/兵庫県・再度山 ・[コラム]山頂でホッと一息。注目の新作インスタント飲料5選 ・[コラム]賢い人は知っている! 公共交通機関のお得な使い方
・・・名古屋・大阪周辺の山座25座のうち12座の選定と執筆協力をしました。(西山秀夫)


   
 
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[ 2020年10月14日 13:54 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

新刊 石丸謙二郎著『山へようこそ 山小屋に爪楊枝はない (中公新書ラクレ)』

・・・NHKラジオの「山カフェ」の番組でお馴染みの石丸さんの著書。この番組は発足時から聴取してきた。段々発展して時間も長くなったし、ゲストのトークも面白かった。ところがチャイナウイルスで平日と土日の境目が無くなってしまった。今までも毎日が日曜日のような生活リズムだったが、けじめはついていた。ステイホームで外出禁止、山行、山岳会の会合、イベントなどみなつぶれてしまい、すっかり忘れていた。本書を店頭で見かけて思わず、「おう石丸さんの本か」という感じで衝動買いしたわけ。パラパラと読んでみると、山歴50年を謳う著者がソフトに核心をついた内容になっている。どうれだけ濃厚な山歴なのかまでは不明であるが、まあ年季を入れた方だろう。これから山歩きを始めたい人には読みやすい。蘊蓄は傾けすぎても理解できず、積読になりやすい。若いころの反省も込めて穏やかにつづられる。文章は語り口と同じでソフト。
アマゾンのコピー文
「爪楊枝が、山小屋にはなぜないのだろう?」。山で感じる些細な疑問の数々に答えます! 道具の選び方や、山小屋でのマナー。おすすめのストレッチ法や大自然との触れ合い方、そして、一歩上の山の愉しみ方……。50年近く山登りに親しんできた著者による、山へのいざない。
【目次】
第1章 さあ、山歩きを始めよう!
第2章 山小屋に泊まってみよう!
第3章 登山に向けて、体を整えよう!
第4章 自然現象に強くなろう!
第5章 大自然と触れ合おう!
第6章 さらに、山へ踏み込もう!

11月24日発売予定の新刊
[ 2020年10月11日 22:11 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

武四郎の未刊の紀行本を刊行 「西蝦夷日誌七編」井村屋・浅田会長、県に寄贈

武四郎の未刊の紀行本を刊行 「西蝦夷日誌七編」井村屋・浅田会長、県に寄贈
松阪市(旧一志郡三雲村)出身で、北海道の名付け親として知られる松浦武四郎の未刊の紀行本「自由訳 西蝦夷日誌七編」を刊行した井村屋グループ(本社・津市)の浅田剛夫会長が26日、県庁を訪れ、鈴木英敬知事に百冊寄贈した。浅田会長は「武四郎の偉業と歴史を少しでも多くの県民に知ってもらいたい」と語った。

同書は松浦武四郎が北海道宗谷地方を中心とした日本海沿岸地域を探査した全七編の紀行本。六編までは既に出版されているが、最後の七編のみ未発表で、世に出されることはなかったという。川筋や沼、地名などが文字だけでなく絵でも描写され、旅の記録が詳細に記されているのが特徴。

今回、七編の中に井村屋と関わりの深い豊冨町の記述があったことなどから、同社が現代語訳版を刊行することにし、取材・編集をたけしろうカンパニー(津市)が手がけた。井村屋が武四郎の著書を刊行するのは「十勝日誌」に続き二冊目。

たけしろうカンパニーの下村友恵さんは「これまでの日誌と違い、描写は淡々としているが、どの場面も克明に記されている。少しのことも逃すまいと真剣なまなざしで筆を走らせる武四郎の姿が見て取れる」としている。

この日、知事を訪問した浅田会長は「豊冨町は良質で美味な生クリームを提供していただいているセコマ社の牧場があり、大変素晴らしいところ。武四郎も訪れており、ご縁を感じた」と強調。浅田会長自身も現地を訪問したとし、「実際にこの地を歩いて探査した武四郎をぜひ多くの人に知ってもらいたい」と述べた。

鈴木知事は「本は県立図書館や総合博物館、県立学校だけでなく市町図書館にも配置し、多くの人に読んでもらいたい」と話した。

同書は2千冊作成。県内のほか、北海道などに寄贈するという。本に関する問い合わせは井村屋グループ経営戦略部=電話059(234)2146=へ。

第21回企画展 幕末維新を生きた松浦武四郎展">第21回企画展 幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎

松浦武四郎記念館



[ 2020年06月28日 18:50 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

『ホハレ峠――ダムに沈んだ徳山村 100年の軌跡』

ソース:編集者が明かす、ダムに沈んだ徳山村の本を出した理由 ―そこから見え隠れする近現代
 もうすぐ大西暢夫さんによるルポ『ホハレ峠――ダムに沈んだ徳山村 100年の軌跡』が発売になる。発売前の、一部未確定原稿を公開しながらご紹介したい。

 私は若い頃に、大西さんの『山里にダムがくる』(山と渓谷社、共著)を読んでいて、良い本だなあ、こんな本を企画できる編集担当の人はうらやましいなあ、と思っていたのだ。2年前に生協の雑誌で大西さんの記事を見つけ、担当者に問い合わせてこのたびの企画につながった。20年(?)もたって、いつか自分もと思っていた夢が実現するというのは、ぜいたくな話だと思う。
 全国でダム開発は現在進行形であり、苦辛している方たちがたくさんおられる。我が身に降りかかっていない人たちからは見えづらいだけなのだ。

*村の血を守るための壮大な計画
 日本で一番大きなダム、徳山ダム(岐阜県)に沈んだ最奥の村に最後の一人になっても暮らし続けた女性(ババと読む!)・廣瀬ゆきえさんが、この本の「主人公」だ。カバー写真の人である。ゆきえさんは、大正7(1918)年の生まれだ。
 この人のことはすでに本や映画(大西さん監督の『水になった村』)にもなっているので知っている人もいるだろうが、今回の本では、今まで知られていなかった、この村の百年の軌跡とともに、旧徳山村にあった、<村の血>を守るための壮大な計画のことが初めて明かされるのだ。
 それがどんなものだったのかは、お楽しみということで…。
 
 さて、大西さんの写真を一枚ご紹介してみる。

ホハレ峠-346-14 ソースにアクセス

 廣瀬ゆきえさんの夫・司さんの死後、二人が暮らした家が壊される。それを目の前にして、ゆきえさんがくちをぎゅっと結んでみつめている。この写真で、長い歴史の村を水没させるとはどういうことなのか、そのほとんどすべてを物語っている、と思えてしまう。

*長いダム湖
 ところでこの本の地図を作りながら、私ははたと、ダムについて実は何も分かっていなかったのだということを自覚させられ、衝撃を受けた(自分に)。この、自分の無知さ、浅はかさを鍛え直すため(?)、現場を訪れることにした。
 まず、ダムというのは丸い(かそれに近い形の)大きなダム湖に、この場合なら徳山村がすっぽりそのまま沈むのだと思っていた。が、地図を眺めると、どうもそのようにはなっていない。もちろん、大西さんの文章にもそんなことは書いていない。

画像3 ソースにアクセス

 地図だけでは、「ただの川」に見えてしまう揖斐(いび)川が、ダムができたことでもやは「川」とは言えないほどの太さになっている。
 現在、この地図の「上開田」の「田」の字あたりに「徳山会館」があり、そこから見える風景はこんな感じだ(写真=大西暢夫氏)。

ホハレ峠-420-23 ソースにアクセス

 つまり、太くて長~いダム湖が出来たといってもいいだろう。

 廣瀬ゆきえさんが暮らした門入(かどにゅう)のあたりは川が細くなっていて、水没はしていないが危険区域ということで強制退去させられた。現時点では地権者だけが利用できるフェリーを使ってしか、アクセスできない。

*子どもが夜中に歩いたホハレ峠
 さて、タイトルになっているホハレ峠とは、どんなところか。
 これについても、今回の訪問で私がなんとしても実感したいと思っていた重要なポイントだ。
 車が通れる一番奥まで行くと、山の急斜面に道が始まっているのが見える。木々や草むらに溶け込んだような、けもの道みたいなもので、なんとか人が一人通れるぐらいの細さである。しかも、繰り返すが急斜面である。上のダム湖の写真に見えるような山々にあるのだから。
 本には、「道はなだらかなところもあるが、細くて沢に滑り落ちてしまいそうな険しい箇所もあった」とある。
 この峠道を、14歳の頃、ゆきえさんは夜中に(!)村を出発し、大人たちに混ざって一晩じゅう何キロも歩いたのだ。なぜか――。
 当時、14歳ともなれば、経済的にも体力的にも家庭を支える存在として、立派な大人と同等に扱われた。つまり、働き手としてこの峠を越えたのだ。14の時は繭を隣の滋賀県まで運んだ。

 「門入にとってホハレ峠とは、物資の流通だった大切な道だが、人と人が交差しあい、出会いや希望があり、多くの人たちの想いが詰まった峠道だったに違いない。
 春から秋にかけて、田畑の仕事をこなし、その合間をぬってボッカの仕事で現金を手に入れ、冬前になると街に出稼ぎに行った。そして芽吹く春に再び門入に帰ってくる。まだあどけない少女がそうして家族を支えてきた」(本文より)
 親元を離れ、妹たちを連れて出稼ぎに何ヶ月も出かけたのだ。
 
 このことだけをとっても、まったく、いまの私たちには信じられない。
 今だと、子どもが走れば「転ぶんじゃありませんよ」、工作の時は「指を切らないようにね」、と親は言うだろう。
 100年で、私たちはこんなにヒヨワになってしまった。
 
*日本の近現代とは何だったのか
 テレビ・冷蔵庫・洗濯機が家電の三種の神器と言われた高度経済成長期。
 これらが各家庭に普及するためには、当たり前なのだが、安定的な電気の供給が保証されなければならなかった。
 そして、一つの村が急激にその波にのまれ、沈んでいった。
 この本は、その軌跡をつむいだ記録である。
 ぜひ、お読みいただきたい。(出口綾子・彩流社)
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管理人の感想文・・・回想の徳山村そして門入の山と谷
 山の本か、と思う 『ホハレ峠』というタイトルだけで最初はアマゾンでクリックしようか、と思ったがためらった。思いとどまったのは徳山村版女工哀史になっていたら嫌だなと思い、書店で中身を見て購読した。昭和55年頃から同時代を生きていた。門入にこんな日本人が住んでいたのだ。山の本ではないが、山と谷にずいぶん遊ばせてもらった徳山村の記念誌として読んだ。
 昨夜で粗方読破してしまった。奥美濃の山は登山の開始と同時進行である。山岳会に入会したのが昭和53(1978)年(28歳)であった。『鈴鹿の山』とか『秘境 奥美濃の山旅』を買って読んで山行のヒントにした。『ぎふ百山』を知るのはもう少し後になる。次々と登った山が増えてゆくのが楽しみになった。この後、サンブライト出版から森本次男『樹林の山旅』の復刻版が出た。すぐに買った。たちまち愛読書となった。
            ダム湖に沈む前の徳山村との出会い
 足は月1回のレンタカーであった。入会した年の10月にトヨタ・スターレットというレンタカーで、馬越峠を越えた。初めての徳山村探訪になった。早暁、薄いガスの中に徳山谷が見え、紫色の煙が昇っていた。その時は冠山に登った。特に岐阜の山が面白く、当時は守山区に住んでいて、中日新聞の購読に加えて、岐阜新聞の東濃版を配達してもらった。昭和55(1980)年3月4日から『続・ぎふ百山』の連載が始まっていた。それが目的だった。昭和60(1985)年1月までのスクラップが残っている。切り抜きしたものを友人に託したらきれいな海賊版にしてくれた。何冊も印刷して仲間に配布したが後に岐阜新聞社から立派な装丁の『続 ぎふ百山』が出版された。海賊版は100山目で止まっていたが新版は130山もあった。
            門入と人の初めての出会い
 昭和55(1980)年(30歳)にマイカーを買った。その車で、金ヶ丸谷の偵察に出掛けた。この時は揖斐川沿いに走り、西谷川を遡った。初めての門入との遭遇である。着いた門入では家の取り壊し中だった。墓には白い布をかぶせてあった。こんな情けない姿を先祖に見られたくないからだという。それで村人に金ヶ丸谷の熊の生息状況を聞いたら、いつぞやは京都の若い人が夜叉ヶ池から金ヶ丸谷を下降して遭難死したという。京都から親御さんがきて息子が帰らないから探してくれというので探したら谷の中で死んでいた。「あんたね、熊よりも谷の方が怖い。行かん方が良い」と諭してくれた。その日はそこで帰った。これが門入とのなれそめである。『ホハレ峠』P236には「たしかに昭和55年ということは、そろそろ徳山村から移転地へ引っ越しが具体的になってくるとき」とあるから記憶にまちがいはない。
 金ヶ丸谷の遡行は平成17(2005)年9月になった。偵察から実に25年の歳月が流れ、ダムの湛水が始まる前年だった。我ながらしつこく追いかけたものである。
 門入の予備知識としては安藤慶一郎編著『東海 ムラの生活誌』(昭和55年9月刊 中日新聞社)がある。5番目に「西美濃山村の生活と親族組織」がある。学者が書いただけに綿密に調査したのだろう。門入の特殊性は通婚関係と指摘している。閉ざされた狭いムラ社会ではそうせざるを得ないだろう。
 乙川優三郎『脊梁山脈』は木地師が主人公の小説である。しかも東亜同文書院の学生のまま兵隊にとられた設定。小説では長野県売木村の木地師と主人公が復員列車の中で出会うのだが、復員列車で親切を受けたお礼に売木村を訪ねると本人は居るのだが別人であった。出会った人は東北に住んでいたというトリックにも使われている。つまり東北の兄が結婚してすぐに出征したが戦死した。弟は無事で帰国できたので戸籍上は兄に成りすましたまま、兄の嫁と子を養う人生を送る。そんな筋書きだった。木地師の社会も他と交わりが少ないから近親婚になるのだろう。要するに限られた山奥の閉ざされた社会での家を守ったのである。
 著者も門入の婚姻関係の理解には相当な苦労をしている。P182辺りから明らかにされている。
 廣瀬ゆきえさんは大正7(1918)年生まれ。昭和7(1932)年14歳で初めてホハレ峠を越えたと、本書にある。昭和8年にはまたホハレ峠を越えて、更に鳥越峠を越えて彦根市のカネボウの紡績工場へ働きに出た。16歳までの冬はそこで働いた。17歳から24歳まで一宮市、名古屋市の紡績会社で働いた。
 著者の大西暢夫さんは門入が越前藩の領域だったことまでは調査されていないようだ。越前から見て最初のムラが門入、次は戸入、本郷である。古くはお坊さんも越前から迎えていた。福井県の日野川源流の廃村・大河内へ行く途中に二つ屋があり、そこから夜叉ヶ池に向かって登る尾根が街道の尾と言った。登りきると金ヶ丸谷の源流部に下る。そこからどのように道があったのかは明らかではない。
            廣瀬ゆきえさん一人の人生を簡潔且つ丁寧に
            描くことで近現代を浮かばせた編集者の手腕
 編集者の手には膨大な大西さんの写真と記録、散文が寄せられたはず。それを取捨選択して現代の社会を浮かび上がらせる。被害者意識を排し、権力機構をことさらに批判するでなく、山に生きる老婆の人生を描くことで現代社会を浮かび上がらせた。読み手の判断にゆだねたのである。
 ゆきえさんは昭和17(1942)年頃、24歳で結婚し北海道に渡った。『ぎふ百山』の千回沢山・不動山の項に入谷の人らは大正の初めに北海道へ渡ったことが書いてある。門入では明治36年から移住が始まっていたのである。戦争を経て昭和28年に北海道を引き揚げた。34歳になっていた。八ヶ岳山麓に一時的に身を置き、昭和30(1955)年に徳山村へ戻った。13年間はまさに転変流転の人生だ。廣瀬家から橋本家に嫁いだはずなのに夫がまた廣瀬家に戻した。もともと親戚同士の結婚だった。これが親族組織で成り立つ門入の特殊性である。
 愛読書の『樹林の山旅』には黄蘗(きはだ)の村(千回沢山と不動山)の項で門入が紹介される。きはだは薬になる木のことで、徳山会館で売っていた。
 森本は昭和10年頃の記録をまとめて昭和15年に発刊した。だから廣瀬ゆきえさんは18歳頃になり同時代を生きていたことになる。但しゆきえさんは一宮市の紡績工場に住み込みで働いているので遭遇はしなかった。森本は大滝屋という旅館に泊まって門入のめぼしい山と谷を跋渉した。ホハレ峠の話も出てくる。「あへぎあへぎ登る急な坂路は、太陽の光を顔に受けて峠に着いた時分には日焼けで頬がはれている。だから、ここはホヽハレ峠だという話を聞いたが、この峠の名前は街で信じてもらうにはふざけすぎている。だが私達は嘘だとは思わない。」
 栃や欅の原木を板に挽いてホハレ峠まで来ると余りの力仕事に頬が腫れるというのが由来のようだ。
 湛水が始まったころは遊覧船が浮かぶとか、門入へは県道が通るとかは仄聞したが今も実現していない。
 ホハレ峠は過去2回行った。1回は車でドライブ。2回目は積雪期にスキーで登った。そして1076mのピークに登り、854mを経由してスキーで川上へ滑降した。一度はホハレ峠から門入入りしてみたいものだがまだ果たせていない。
     
※『ホハレ峠』アマゾンでは中古品として、3880円になっています。アマゾンに在庫がないためと思います。
書店での新刊価格は1900円+税=2080円です。
[ 2020年06月22日 14:14 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

みんなの山歩き 新越中百山

みんなの山歩き 新越中百山
テレビ放送の延長レベルだろうと完全に侮ってた。

これは富山の山ヤは読むしかないでしょう。マニアックな山も多く載っており、旧「越中の百山」に載ってない山もちらほら。「富山県山名録」で名前は知ってはいたが、20座も登ってない山があった。

現在、「富山の百山」完登。旧「越中の百山」残り6座。更にこの『新越中百山』16座(旧「越中の百山」と4座ダブり)も登れる喜び。これを目標にトレーニングに励もう。

ただ、この本注意が必要。正直最低でも20座程は一般的な登山者が気軽に登れる山ではないと思う。突坂山なんて、現状ある意味かなり条件が揃わないと登れないし、”日帰り登山の魅力発見!”って帯にデカデカ書いてあるけど、日帰りなんて到底無理な山も多数。登山道のない山はざっと数えただけでも40座弱。この時点で一般的ではない。また、難易度が甘く書かれている山も多く、表紙に騙されて「富山の百山」感覚で取り付くと痛い目に遭うだろう。登られる方は抜かりない計画を。まぁ、お互いもう少し我慢しましょう。

それにしても、自身にとってはかなり魅力的な本。こんな時にこんな本が出るなんて…。今後の楽しみだ。

また、この『新越中百山』の売れ行き次第で『新越中二百山』の発売も検討されているとのこと。

続編も見たいので、皆さんも是非!

新・越中百山 (山凱会 編著)
今日も本の話し、「新・越中百山」が発刊されました。

富山在住の方々は、BBT富山テレビで放送中「みんなの山歩き」は知っておられるはず。

編著の「山凱会」のメンバーが、BBTのキャスターと日帰りローカル登山をしながら山の楽しさを伝えている番組をベースにまとめられたものです。

(山凱会の山行には、私も二回ほど御一緒したことが有りますが、皆さん私より年上なのに元気で楽しく登っておられる印象が)

「山凱会」の「凱」って、元富山県警山岳警備隊長 谷口凱夫(たにぐちかつお)さんの名前から一文字を取って作られた会です。(登山教室の講師を凱夫さんがしたのが切っ掛けとのこと)

という事で、私の元上司で山でも下界でもギューって鍛えられました。

池の平小屋のバイトしていた時に一人で、池の平~長次郎雪渓~剱岳~剣沢~池の平を回った話をした様な?その時に剣沢警備派出所に顔を出して「警備隊員になりたい!」と志願した相手が当時の谷口凱夫小隊長で、帰りに「桃」を二つを持たせてくれた方なのでした。(あの頃、志願する人間は今みたいに多くありませんでした)

身体も大きく若い頃は柔道の特練員もしておられて、50歳位だったはずなのに県警の柔道大会に一緒に上市警察署チームの選手として出場したことも!

(久々の柔道訓練なのに、いきなり「連続打ち込み200本!」等 特錬員でもないのに・・・あり得ないシゴカレ方を、春先には若い地域課員は山岳・一般かかわらず、当番・非番・休暇など関係なしに毎朝早朝集合させられて数キロ走らされたり・・・泣)

出身が朝日町蛭谷という山村?で私の家と近く言葉訛りも似ていて、なんだかんだと心配も掛けましたが可愛がってもらい?ニュージーランド登山(遊び)も一緒に行って来ました。(もう一人加えた三人で二週間! 当時は、新婚旅行でもそんなに長く休暇はもらえない時代でしたが、さすがは凱夫さん警務課に睨みを効かせて?)

外を出歩くことが出来ない昨今、興味のある方は本屋さんへ!(ちなみに¥2,800税別です)
[ 2020年06月22日 13:35 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

一等三角點硏究會会報「聳嶺」発刊

 一等三角点研究会会報「聳嶺」12号
 このほど一等三角点研究会の会報 新世紀第十二号「聳嶺」が発刊された。記事は115ページまで会員の寄稿で満載。巻頭言は大槻雅弘会長の「持続可能」。記録は鹿児島県吐噶喇列島臥蛇島の調査および探訪を若林忠男が寄稿。他、東北、四国、など読み応えのある記事が掲載されている。
 この会は単に山頂に立つのみならず、全国に975座ある一等三角点の山の探査に重きを置く。だから秘境的な離島、無人島には船をチャーターしての渡船が必要になる。江戸時代の探検を思わせます。本土でも深山も藪をかき分けての登山になる。丘陵地だから簡単に見つかるとはいえない。名山志向ではないところに真骨頂がある。
 名山を登りつくした老登山家の慰めかというとそうでもない。道なき道を行くのだから地形図を駆使してルートファインディングの能力は必須だ。
問合せは一等三角点研究会へ。Email:otsuki216@maia.eonet.ne.jp
   
・・・白山書房の「山の本」107号には同会の「聳嶺」第十一号が丁寧に紹介されています。
[ 2019年12月11日 13:12 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

新刊『タ―プの張り方火の熾し方 私の道具と野外生活技術』 ヤマケイ文庫

2018年7月刊行。著者は沢登りで、ヤマケイや岳人、釣り雑誌に多数の寄稿をして有名な高桑信一。
タイトルには沢登りと謳っていないが、基本的には沢登りの本である。
そのジャンルの中の道具に特化して、43の項目にわたって著者の蘊蓄が傾けられている。
そんなハウツーなら知っているよ、と思うこともあるが、沢の入門書には形式的に列挙してあるだけのことも多い。
単に沢を登るだけでなく書ける人なんだと思う。しかも沢歴が長い。
必ずしも新しい装備を紹介しているわけではなく、古い装備でも大切に工夫して利用する。
しかも調達先は登山道具店だけではなく、ホームセンターからも見つけて紹介する。
そんな所に高桑信一のやり方考え方を叩き台にして沢を楽しんでください、というメッセージが伝わってくる。
高桑信一の哲学とはプラグマティズム。哲学とは知ることを愛するという意味。
本書にはそんな著者の実践的な沢の道具のプラグマティズムを読みとりたい。
道具の使い方揃え方に人となり、経験の濃さが現れている。
ハウツウだけなら山の雑誌の新製品紹介を参考にすればよい。

第四章「溪から溪へ」は秀逸なエッセイを3本を置いてある。
1 「おじさんたちの夏東北の秀渓にて」は若かりし頃へのノスタルジアである。
2 「秋の浦和浪漫OB山行」は沢登りの拠点としていた山岳会へのレクイエムか。
3 「昔の溪から今の溪」は著者の真骨頂。
日本の伝統的な登山家としての立ち位置の表明だ。
写真が多いが、実は名うての写真家としても知られている。
著者にとって、沢登りは創造であった。フィールドワークの対象になった。
そして沢登りを遡行と置き換えた。
沢登りは「より険しい未知」を求めるアルピニズムに隷属という。つまりアルピニズム以下であるということ。
 ここまで読んで見ると、高桑信一は田部重治につらなる登山家になったのだと思う。
田部重治『山と渓谷』の中の「遡行の喜び」の一節にかさなるからだ。
沢登りを文学にした冠松次郎、田部重治につらなる1人。
   
・・・古来、旅の記録を残して文学となった例がある。
1菅江真澄(1754~1829)は愛知県豊橋市の武士。28歳で故郷を出て、東北を旅し、菅江真澄遊覧記を残した。平凡社ライブラリーに収録されている。76歳の時、秋田県角館で没した。旅がフィールドワークになった。
2真澄遊覧記を読んだ柳田国男は農林官僚で詩人だったが、後に有名な『遠野物語』を私家版で出版。反響を呼んだ。旅から得られる見聞と知見を文に発表、柳田学と言われた。日本民俗学になった。旅は学問だと書く。
以上の例をみても秋田県出身の高桑信一が直接間接に影響を受けていることはまちがいないだろう。『山の仕事 山の暮らし』は立派な山村民俗の一書である。遡行で訪れる山村の人々のフィールドワークである。


[ 2019年02月16日 10:19 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

新刊『定本 黒部の山賊 アルプスの怪』 ヤマケイ文庫



   
・・・・特に定本になった本はよく売れたようです。アマゾンのコメント90件は山岳書としては多い。
定本になって畦地梅太郎の版画の表紙を変えています。しかし文庫化にあたっては初版の表紙にもどされました。

 著者の伊藤正一(1923~2016)さんは三俣小屋の利権を林野庁と争っていた記憶しかなかった。本書を読んで、松本深志高校卒(旧制)で物理学者を目指していたこと、日本勤労者山岳連盟の創立者であることも知った。
 社会の仕組みをよく知っていて、権力にただ盲従、服従しない点は岩波茂雄と同郷の人だけはあると思った。信州人は反骨の精神が強い。したがって左翼のシンパになったり、日本共産党の支援もあったかに思われる。

 今度の読書で何でこんなに面白く読めたのか。山を始めた当初は折立から太郎平を経て黒部五郎岳へ縦走、折立から薬師岳を経て立山へ縦走、薬師岳往復くらいしか山歴はなかった。鷲羽岳は遠い山であった。
 本書に書いてあるような黒部源流に奥深く入ったのは2009年の盆休みに雲の平を経て読売新道を歩いたことだ。同年の9月には上の廊下を突破した。2010年8月には赤木沢を遡行、2013年の8月にはついに黒部源流を遡行する。
2009年9月 黒部川-上の廊下
2013年8月 黒部の山旅
 そして三俣山荘に宿泊した。この時はすでに同書が置いてあり販売もしていたように記憶するが、購入にまでは至らなかった。伊藤さんは2016年に死去されたからこの年はまだ存命だったことになる。
 要するに雲の平に象徴するような別天地を知ったら黒部の魅力は忘れえないものになる。伊藤さんは黒部の語り部たらんと本書を著したのだ。非日常の世界を平易な文章でわれわれ都会人に知らしめた。
 そうか、柳田國男の『遠野物語』『山の人生』も怪異な話だった。黒部源流に人生を送った山男・山賊らの物語なのである。
[ 2019年02月14日 17:35 ] 山岳名著 | TB(0) | CM(0)

唯川恵『バッグをザックに持ち替えて』

この私が山登りなんて 『バッグをザックに持ち替えて』著者新刊エッセイ 唯川恵
この私が山登りなんて
[レビュアー] 唯川恵(作家)

 軽井沢に移り住んで十五年が過ぎようとしている。

 きっかけは犬を飼ったこと。それがスイス原産のセントバーナード犬で、東京の暑さに耐えられなくなったのだ。もちろん、犬舎側からは「大丈夫です」と太鼓判をもらっていたが、実際はまったく違っていた。五月ごろから十月まで、ほぼクーラーは付けっぱなしになった。電気代がべらぼうにかかるのは仕方ないにしても、散歩に出られないのはかわいそうだ。セントバーナード犬は、平均寿命が七歳ほどと言われている。それで移住を決めたのだ。

 軽井沢からは、浅間山が美しく眺められる。稜線は町を包み込むかのように優雅なラインを描いている。当時は眺めるだけだった。けれども移住して七年後、犬が逝ってしまうと、想像以上の喪失感に見舞われた。そんな時、誘われて浅間山に登った。とにかくきつくて、その時は「二度と登らない」と決心したのだが、下りてくると、どういうわけかまた登りたくなった。

 この仕事をするようになってから、運動とは縁のない生活をしてきた。それでも二度、三度と登るうちに、いつしか山に魅了されていった。

 それから八ヶ岳や北アルプス、富士山、谷川岳などにも足を伸ばし始めた。思いがけず、エベレスト街道を歩くチャンスにも恵まれた。高山病に苦しめられながらも、何とか標高五千メートルをクリアすることができたのは幸運だった。

 ちょうど、私は小説家としてこれからどう生きてゆけばいいのか、迷っている時期でもあった。山に登ることで、せせこましいことばかりに追い詰められている自分を解放できたように思う。

 山は楽しいだけではない。山で知ったルール、怖かった出来事、辛かったり、腹を立てたり、思い知らされたり。本書はそんなあれこれを綴ったエッセイ集です。

バッグをザックに持ち替えて 唯川恵 著
[レビュアー] 市毛良枝(俳優)

◆「登ってみたい」背中そっと押す
 登山家の故・田部井淳子(たべいじゅんこ)さんをモデルにした長編小説『淳子のてっぺん』(幻冬舎)を書いた著者が、自分の山をどう語るのかが楽しみで、ページをめくる。

 いきなり愛犬との出合いがつづられる。きっかけは犬…。いったい、どういう山の話…? 

 そう、「山にはまりました」と胸を張りながら、実はなかなか山には行かない。「行きたい」でも「無理かも」。行けば楽しい。なのにぐすぐす言いたい自分もいる。

 そんな思いが繰り返し交差し、ゆっくりと変わっていく著者の心境が描かれていく。どうも、あっという間に山岳乙女に変貌していくエッセーとは一味違うようだ。

 やがて、一念発起、用具をそろえる。そうそう、そうでなければ。しかし、ぐずぐずしているようでいて、山への思いは意外にも熱い。いつの間にか、名だたる山に登っては、しっかりキャリアを重ね、とうとうエベレスト街道の五千メートル峰にまで向かう。

 そこでも山屋(やまや)と呼ばれる人種とは一線を画し、山頂だけが山ではないと無理はしない。そんな程の良さもほほえましく、山に惹(ひ)かれて集う仲間とともにどんどん山にはまりこんでいく描写は、さすが、山好きの心をくすぐるに十分である。

 山は夫婦間にも影響を与え、尊敬を込めて「リーダー」と呼ぶ夫の「山では最悪の事態を想定して、最良の準備をして行け」というアドバイスにも抜かりなく触れる。

 重ねた経験には無駄がない。山はやっぱり素晴らしい。

 気負うことなく山の楽しさを語る著者の言葉は、「山なんて…」と思い、「登ってみたいけど無理!」としりごみする、山を知らない人たちの背中もそっと押す。

 ぐずぐずしたっていい、頂上めざさなくたっていい、いろんな登り方がある。あなたはあなたのやり方でと、すべての読者に普遍的な夢も与える。
(光文社・1296円)
 
・・・・田部井淳子といえば女性で世界初のエベレストの登頂者である。NHKラジオの講演を聞くと、エベレスト登山こそ至宝という内容であった。私にはちょっと辟易させられる人物のようである。ある若い人にエベレストに登りなさい、と勧めると、僕は登りません、いやあなたはエベレストが恐いんだ、という攻撃的な性格だったようだ。登山に対する価値観は自由である。価値観を強制するものではない。
 日本と言う国はノーベル賞を受賞すると、受賞の理由となった専門分野以外の何でも信用されて、権威になるごとく、女性のエベレスト初登頂も権威になってしまったのだ。戦前の槇有恒のアイガ-日本人初登攀、戦後のマナスル初登頂、等など、みな権威になり、上から目線になった。
 講演料は一回150万円というから立派な名士扱いである。ハンディの多い女性がどう跳ねのけて登頂を成し遂げたのか、多くの一般人には興味深いことであろう。晩年は人寄せパンダよろしく、旅行会社のリーダー役で海外登山に随行する話も読んだ。それだけ同性の登山者に好かれていたのだろう。
 女性には優秀な人ほど、今に見て居れと言う、プライドがある。
 人生を世渡りする上では男も女もないのだが、なぜか、リベラルの風潮のせいか、女性の肩を持つと囃されるのである。
 昔はイプセンの人形の家のノラ、戦後はガラスの天井の謂いである。著者の唯川さんは直木賞作家というから人間を描くプロである。どんな田部井像に造形されたのか興味津津である。
[ 2018年08月04日 12:48 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

祝!山と溪谷 2018年8月号 創刊1000号記念特別号

山と溪谷 2018年8月号 創刊1000号記念特別号
巻頭特別グラフ
皇太子さまの山岳写真
日本山岳会員であり、日本山岳写真協会の特別会員である皇太子さまがお撮りになった「素顔の山」を、
本誌1000号の特別巻頭グラフとして全14ページにわたり掲載。

特集:決定版!日本登山ルート100選
日本にはすばらしい山が多数あり、その頂に至るルートはバラエティーに富んでいます。『山と溪谷』創刊1000号を記念する本特集では、山そのものだけではなく登山ルートに目を向けた、日本を代表する100ルートを選出しました。選出方法として、全国を7つのエリアに分け、それぞれのエリアを熟知した人たちによる選考委員会での合議という形をとりました。
また、特別紀行として湊かなえ(作家)による立山・剱岳ルポ、樋口明雄(作家)による屋久島宮之浦岳ルポなども掲載しています。

北海道10選:知床連山縦走、表大雪縦走、雨竜沼湿原~南暑寒岳など
東北10選:朝日連峰縦走、堀内沢~羽後朝日岳(沢登り)など
関東・中部25選:尾瀬沼~見晴~山ノ鼻、火打山~妙高山、八丈富士~三原山など
日本アルプス25選:剱沢~池ノ平~仙人池、裏銀座縦走、荒川三山~赤石岳など
関西10選:伊吹山正面登山道、大台ヶ原大杉谷コースなど
中国・四国10選:三瓶山周回、剣山~次郎笈など
九州10選:国東半島峯道ロングトレイル、ワク塚~大崩山~坊主尾根など

第二特集:山と溪谷1000号の歩み
1930年(昭和5年)に創刊した『山と溪谷』は、2018年8月号で通巻1000号を迎えました。
1000号におよぶバックナンバーをひもときながら、日本の登山史を振り返ります。

特別寄稿:私と山と溪谷

1000号記念特別別冊付録:登山用語小辞典
山と登山に関わる基本用語2000語を収録!
※本『登山用語小辞典』は紙版のみの付録です。kindle版/電子版には付録がありません。

1000号記念読者プレゼント
応募者の中から抽選で1000名様に 山と溪谷オリジナル深型チタンシェラカップをプレゼント!
※1000号記念オリジナルチタン製シェラカッププレゼントは、 雑誌の綴じ込みハガキでの応募とさせていただきます。
電子版からの応募はできませんのでご了承ください。
・・・・私が保存している「山と渓谷」誌のバックナンバーの一番古いのはNO137です。表紙は神崎川の大瀞で飾られた。自然の造形美です。紙質が悪く小型版ですが、執筆者の熱気が伝わる内容があります。1000号の歩みは読んで見るとして、編集者、読者の愚直な支えがあればこそ継続してきたんですね。
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所属の俳句結社誌の「辛夷」も最近1100号を達成した。創刊は1924年でした。1000号超は全国で10誌のみという。「山と渓谷」誌は1930年の創刊になります。ともに戦中戦後をはさんで息の長い誌齢を重ねています。今に至るまでにライバルの商業誌が登場しては消えて行きました。ヤマケイは初心者向けの編集方針を貫いたからでしょう。内容を高級化、特殊化すると読者層が薄くなり営業的に成り立たなくなる。
 バックナンバーで好きな時代は昭和30年代以前です。当時は登山者が寄稿者であり、読者でもあった。相方向の参加型が好まれたと思います。登山のジャンルが細分化され、ヒマラヤ遠征志向、日本百名山志向などに分化すると編集も総花的になるのはやむを得ない。
 創刊号信条には「最近に至りまして本邦登山界の急激な飛躍的発展は実に目覚ましいものです、然し、その発展過程の裏面には常に真面目な登山者群の実践的研鑽が不断に積れて来ていた事を認めねばなりません。

然し遺憾な事は、それ等の登山者群が発表機関をたった一つしか持っていないか、又は全然何も持ち合わせていなかった事です、例えば、何々大学山岳部、又は何々山岳会の機関誌は、それ等の山岳部や山岳会の機関誌として、その陣営に立てこもっている人々のみの発表機関だったに過ぎません、なお、我々は世に何んの発表機関を持ち合わせていない為めに、お互いに研究仕合わねばならぬ多くの事柄をそのままお互いに見過ごしてしまっている事実を遺憾とします、総らゆる立場に立った「山岳専門雑誌」出でよ!は我々の多年痛感して来た事柄です。

本誌は象牙の塔に立てこもっている各山岳部及山岳会の優秀なる人々の文献を一つの誌上に包括し、且つ発表機関を持ち合わせぬ多くの真面目な人々の研鑽を包含してしまう事に依って本誌の大きな特色とする所です。以下略」とあります。ヤマケイが紙面を提供して、真摯な登山者を育てる役目を担っていたのです。

[ 2018年07月29日 09:38 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

新刊 川端守・東紀州10マウンテンの会『東紀州の山々』

三重)東紀州18年間山歩き紀行文まとめ出版 尾鷲
 尾鷲市の元高校教師で県立熊野古道センター長の川端守さん(77)が、東紀州地域周辺の山を歩いた紀行文をまとめた「東紀州の山々 〈東紀州10マウンテンの会〉18年の記録」(風媒社)を出版した。

 会は1999年5月に体験イベントの一環として開かれた便石山(尾鷲市)山行を機会に発足、川端さんが会長に就いた。会則や会員登録はなく、毎月の山歩き参加者50~60人程度に川端さんが紀行文を書いて郵送した。1回でも参加した百数十人に毎年4月、年間の山行計画も郵送した。18年間の延べ参加者は8600人に上る。

 行く山は、尾鷲市や熊野市から日帰りが原則。当初は東紀州地域の代表的な10山の選定を目指したが、3年目から年十数回の山行に趣旨を変えた。必ず下見し、草刈りなどをしてコースを整備した。約20人のボランティアスタッフで運営してきたが、60代後半から80歳近くに高齢化したために3月31日での解散を決め、出版を思い立った。
 本は、「尾鷲市・紀北町」「熊野市・南牟婁郡」「大台山系」など地域別の6章構成。山登りだけでなく、地域の歴史や文化に触れることを心がけた。地元の人もほとんど登っていない三浦山(紀北町)や、作家吉川英治も林道を車で越えた熊野古道の矢の川(こ)峠(尾鷲市)が印象深かったという。

 紀行文は2010年の熊野古道小辺路を題材にした本に次いで2冊目。川端さんは「地元から見える山を登り尽くしたかった。眺めると、一つ一つの山の思い出がよみがえる。18年間に大きな事故がなかったのが一番良かった」と振り返る。

 B5判316ページで2千円(税別)。500部発行。県内主要書店で購入できる。問い合わせは川端さん(0597・22・3597)へ。(岡本真幸)

尾鷲 東紀州の山紀行 日帰り登山会が随想集 103カ所18年間の記録 三重
尾鷲】三重県の東紀州地域を中心に日帰り登山をする「東紀州10マウンテンの会」は、18年間の記録をまとめた随想集「東紀州の山々」を4月1日から全国で発売する。会長の川端守さん(77)は「昔からある生活道や道標、お地蔵さんなど地域の歴史や文化を知ってもらえたら」と話す。

同会は平成11年に発足。当初は尾鷲、熊野両市を代表する10山を登っていたが、1年に10山登ることを目標に変えた。これまで約130山登り、延べ8600人が参加した。

随想集は川端さんが山行ごとに登山の感想や記録を書いて参加者に送った紀行文や、集合写真などを掲載している。

103カ所の山行を「尾鷲市・紀北町」「熊野市・南牟婁郡」「奥伊勢」「新宮・古座川」「大峰山系」「大台山系」と6分野に分けて紹介。表紙は熊野市紀和町入鹿地区で発生した朝霧「風伝おろし」を撮影した写真を使った。

会は高齢化などを理由に本の出版をもって解散する。川端さんは「解散は寂しいが、山に限らず皆でわいわいできる場をつくりたい」と話した。

500部発行。販売価格は2千円(税別)。問い合わせは川端さん=電話0597(22)3597=へ。


書店にない場合は風媒社のHPへアクセス
風媒社

小屋番の山日記
恵贈 川端守・東紀州10マウンテンの会『東紀州の山々』
東海白樺山岳会ブログから
古ヶ丸山と天狗倉山を歩く
[ 2018年04月10日 15:51 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

山と溪谷 2018年3月号「もう悩まない! 膝痛と歩き方」「快適に歩く登山のテーピング」

 膝痛は登山者の高齢化にともない増えているのだろう。山と溪谷 2018年3月号は「もう悩まない! 膝痛と歩き方」を特集した。実は2015年4月号特集「登山者の悩み みんなの膝痛解決します! 」、山と溪谷 2017年3月号 「悩めるヒザ、予防と対策」と読者の要望に応えた。2016年2月号でも【特集】「総点検! 山の"カラダ"」 一生、登山を続けるために。自分の体を知り、体力をつけよう。」と総合的な特集をしている。それだけ肉体的な悩みが寄せられているのだろう。単行本でも膝痛の本が出ている。

 人間は多種多様なので個人差が大きい。決め手はない。個人的な体験であることをお断りした上で、上記の特集や書籍を参考にして、膝痛完治の参考にして欲しい。
 まず過去を振り返ると、沢登りで岩から岩へ飛んでいたのが膝に負荷をかける原因になったと思う。しかもザックを背負う。加齢にともない体重増もあった。当然50歳代から膝痛はあった。当時は2~3日で痛みは引いた。それでも残る際は市販の経皮鎮痛消炎を購入して貼付した。痛みはとれた。それが2015年(65歳)くらいまでには一過性の痛みではなく、常時痛みがあるようになり、外科医で電気マッサージ等のリハビリを受診したが軽減しなかった。2016年(66歳)では地下鉄駅の階段の下降が困難になってきた。それでも暖かくなると少しは軽減した。2017年(67歳)の1月にリョウシンJV錠が効くと先輩の勧めで服用を開始。大腿筋の鍛錬を思いつき、2017年6月から3日に1回、往復5kmくらいから自転車乗りを開始した。往復15km、往復20kmと距離を伸ばした。ただ乗るだけでは飽きるので、丘陵地の200m以下の三角点にタッチする目的を加えて変化をつけた。
 するとなんと3ヶ月ほどで膝に回復の兆し が見え始めたのだ。経皮鎮痛消炎剤の注意書きには「消炎鎮痛剤による治療は原因療法ではなく、対症療法で. あることに留意すること。 」とある。血液の流れを止めて冷やしていた。根本治療ではなかったのだ。
 それで9月から今まで月に2~3回は山行を実施。段々に自信が回復してきた段階である。もう10時間登り下りしても翌日少し痛みがある程度まで回復を実感した。登りには支障はない。下りが多少不安がある。先週は厳寒の中でテントを張った。その際、患部の右ひざが血が通っていない感覚を覚えた。まだ血流が回復しきっていないと思う。安易に習慣的に消炎剤を続けてきた結果、細胞が壊れてしまったのだろうか。リョウシンJV錠はビタミンB系とEを含むビタミン剤である。これが代謝を促して血流が回復し軟骨が再生してきたのか。ここは医学の領域である。肉を食べるにしてもしょうがやにんにくを入れて食べる。そのことで吸収されやすくなるという。様々な試みを経て回復をしてきた。
 整理すると
1 膝に負荷のかかる歩き方を止める(ヤマケイに掲載されている)
2 ザックの軽量化に務める
3 体重増に注意する
4 食事はたんぱく質、ビタミンB系、ミネラルを中心にバランスよく食べる
5 膝にかかる負荷の少ない自転車乗りで大腿筋の維持を考える
6 すでに膝痛の人はリョウシンJV錠を試してみる
7 経皮鎮痛消炎剤は医師の処方でのみ利用する。常用しない。
追記

本書も膝痛の緩和と治癒に役立つ知識が詰まっている。
目次には膝痛の文字はないが、
P100の見出し「腰痛・肩こりにはたっぷりのビタミン」には筋肉についての知見が書いてある。関節痛には筋肉の強化と維持が欠かせないのである。
P110の見出し「関節炎・骨粗鬆症には、カルシュームよりもまずタンパク質」に変形性関節症についての記述がある。素人考えではまずカルシューム(コラーゲン、グルコサミン、コンドロイチン)の補給を考えがちであるが、著者はタンパク質の不足という。

結局登山を長く続けてきたが、特別に筋力トレーニングを積んできたわけではない。だから加齢にともない、筋力が衰えると膝に負担がかかるのであろう。原因は老化ということ。今までに試行錯誤しながら得たのは高齢者は普段のトレーニングの大切なことと食事の重要性を再認識した。しかもP241の見出し「スポーツで体が若返る」のウソを読むとむやみに頑張るのも考えものだと理解した。
最後になったが、著者の三石巌氏は1901年生れで1997年1月に死去されている。それでもこの本は売れ続けて16万部と帯封にある。一度は読んでおいて損はない。しかも死ぬ直前の2週間まえまで雪山でスキーを楽しんだらしい。真の意味で生涯現役を貫いたことになる。話は変わるが、105歳で亡くなった三浦敬三氏も寝る前に倒れるまで屈伸運動をしたそうだ。スキーは確かに屈伸運動の連続である。つまりささやかでも筋力トレーニングを続けることが元気で長生きの秘訣らしい。
[ 2018年02月22日 20:12 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

浅田次郎『神坐す山の物語』

 浅田次郎。双葉文庫。2017.12.17刊。単行本は2014年に双葉社から刊行。
帯封には”いにしえの神気を漂わせる山を舞台に描く「純然たる日本」の世界。短い文章の中に大きな世界を封じ込めた日本文学の傑作”と謳う。

 東京都の御嶽山が舞台。母が御師の娘だったせいで昔話を聞かされて育ったという。それを浅田流の怪異な小説に仕立てた。言わば母が語り部であり、浅田が書き手になった。遠野物語も原作(種本)があり柳田国男が文語文で著した。
 大衆小説の第一人者の浅田次郎がなぜこんな小説を、と思うが山岳書の世界で怪異な物語本がロングセラーになっていることが影響しているかに思う。例えば山と渓谷社の『山怪 山人が語る不思議な話』は増刷に増刷を重ねている。続編も刊行された。続けて『定本 黒部の山賊 アルプスの怪』も復刊された。
 本書もその流れに乗ったのだと思う。
 私も小学生の時代、住んでいた小さな農村では狐憑きにあって山へ逃げ込んだ人がいて、火事で鳴らす半鐘を叩いて村人を集めて夜中に山狩り(捜索)がされたことがいまでも記憶の底にある。あるいは2つ3つ年下の近所の男の子が神隠しに遭いこれも大騒動することがあった。山は怖いところだという印象をその時分に叩きこまれたのである。 
 今でも単独行で山中で相手も1人というときは緊張する。女性だと尚さらに警戒心が働く。山をひとりで彷徨う人間ほど怖いものはない。
 さて、過去の日記か報告書のような平易な文体である。登山でもいつしか迷い易い平を歩いていて、とんでもない道に入ることがあって引き返して確かめることがある。だから気をつけていないと何が書いてあるのか脈絡がとれなくなる気分である。それでまた丁寧に虚実の分かれ目をたどるように読み直すことがしばしばであった。
 中でも「兵隊宿」は傑作であろう。東京都の山奥から遥かなる中国大陸の日露戦争の戦場へと導かれる。知ったが終いなのでそれは読んでのお楽しみである。
 御師部落とは山の神に仕える神官のことで、その神官の村。東海地方では岐阜県白鳥町の石徹白が知られる。全戸神官で名字帯刀が許されたという。白山への登拝を代わりにする代参をしたという。


類書
[ 2018年01月08日 22:15 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

先人に学ぶ・・・真の登山者への道

 リーダー研修として座学を担当したことがあった。依頼されてから考えたテーマは「先人に学ぶ」ということである。昨今は登山歴の長いベテランリーダーでも遭難事故を起こすことからかねてから考えていたことをまとめるためにも引き受けた。
 主に登山家で生物学者の今西錦司の著書から引用した要点をもって金言とした。
①本当の登山家とは山のことをよく知っている人であり、それゆえ登山家になろうと思えばまず山を知ることから始めなければならぬ。山登りなどは普通の体があれば誰にだってできることで、特に難しい登山術などという術を修練しなければならぬほどのものでもなく、むしろ登山家の間に山の登り方があるとすれば、それは山を知ることに寄って自ずから体得されるところの、山登りの一種の礼儀作法のようなものではなかろうかとさえ、私は考えるのである。中略
 そして経験者といえども、都会生活を送るものが、わずかの暇を盗んで得たぐらいの経験はどうせ大したものではない。われわれは山に対してはいつになっても初心者であるという謙虚な気持ちを常にもっていたいものである。(今西錦司「山への作法」から)


②道がない場合も、あっても迷い易い場合も、藪や滝や岩場の記号があっても目的とするところを完登できる力があれば本物の自然は喜んで迎えてくれる。(西尾寿一「鈴鹿の山と谷」から)
 西尾寿一氏は『渓谷3』の前書きに「修練というのはおそろしいもので、30才から40才、あるいは50才の人が若い登山者とそれほど差のないはげしい登山をこなしている例をよく見る。
 これは若い自分から長年続けてきた経験の積み重ねを貯金として、この貯金を全部引き出さないでもちつづけてきたからにほかならない。登山をまったく行わない同年代の人には到底まねのできない芸当である。」 とも書いている。
 つまり山に全力で立ち向かってはいけないのだ。突破する力も技術もないと悟った際に撤退できる余裕をもつことであろう。年を経れば若い時にはできたこともできなくなる。年相応に対応する知恵を持ちたい。

③出来るだけ先輩と接して見、聞き、そして学ぶことになる。結局は会を仲介として、個人的関係に依存することになるから、教えを受けようとするものの積極的な意欲がなければ成績を勝ち取るわけにはいかぬ。(岳人No126「山岳会」特集の跡部昌三「入会ということ」から)
 跡部昌三氏は名古屋山岳会の創立者。中部地方の山岳界の指導者でもあった。近年ではプロの登山家、登山教室、登山学校、登山講習会といった形で学ぶ機会もあるが学びたい人は山岳会に入会してみて先輩について指導を受ける心得を説いている。今日では封建的とはいえるが重要な方法である。
 封建的とはいえ、会長や指導者と言えども会費は平等に支払う。規約の上では対等である。無償で教えてもらうということは得難いことであろう。御在所の藤内の壁でプロのレッスンを受けると半日で15000円と促聞する。1年分の会費以上の対価を払う。やっぱり、登山の実践を通じて覚えればいい。
 山岳会には①親睦を目的とした会、②冬山と岩登りに特化して活動をする会、③沢登り、山スキーに特化した会、④その他がある。①の親睦の会だと岩登り、冬山などの技術を授かる会員が居ないことがある。しかし、活動領域を縛られずにすむ。オールラウンドにやれる。②③④はそれぞれ熟達者がいて技術指導をうけられる可能性は高い。活動領域を限定することがあるから自由にはやれない。一長一短がある。

④会として成り立っている以上、その行くべき道がある。その一つとして完全な(真の)登山者への育成の問題がある。(登山靴を履いての)岩登りはその技術は登山の技術のエッセンスのように考えられるし、そこに登山の真髄を見出す。従って好むと好まざるとに関わらずある一定のところまでは必ずやってもらわなくてはならぬ。(『山』の跡部昌三「岩登りの目的」から)
 今西錦司の(『山岳省察』ー山・登山・登山者の相互関係) 言葉には「一般登山なるものがはたしてこのようにいわゆるスポーツ的、技術的登山と対立的なものであったかどうか。日本アルプスの開拓者はおそらく岩登りを求めて山へ行ったのではあるまい。しかし、小島(烏水=日本山岳会初代会長))さんが霞沢を越えて上高地に入り、槍や穂高に登ったときのことを考えると、これを俳諧趣味とか、低山趣味的登山とかいってすましておれるだろうか。木暮さんや冠さんが辛酸を舐めて黒部の秘密を探った、ああいう登山を静的登山と称しうるだろうか。中略。しかし遠心的、浪漫的な開拓者たちといえどもかならずしも岩を避け、雪を恐れていたのではない。かれらにとって未知の山岳の不安が大きければ大きいほど、その心は高鳴り、そのためには障壁のいよいよ高く、裂谷のいよいよ深きをつねに求めていたであろう。中略。登山中岩に出くわして岩に登ればそれがすなわち岩登りである。だから一般登山の側に立って考えれば、あえて静的、動的の区別などはなく、いわゆるスポーツ的技術登山もその一つの一表現として、もともとその中に胚胎され、包含されていたので、異端視する必要などさらにない」とある。
 跡部さんも今西さんも岩登りとは垂直の岩壁を登攀するばかりが目的ではないというのだ。その通りである。

以上のことを経験をまじえながら1時間ほど話した。
 遭難事故が報道されると必ずや海外遠征の経験のあるベテラン、登山歴20年の熟練者などの形容で語られる。それでも事故を起こした事実は完全な真の登山者ではなかったことになる。常に初心者であると思いなさい、という言葉には重みがある。
 山に住む人は雲の動き、肌に感じる湿気や気温、風の動きなどをいやおうなく毎日観察している。それゆえこれからどうなる、という予測も可能になる。遊びで山に行く人には到底及ばないわけである。 真の登山者への道は永遠ということである。
[ 2018年01月05日 00:42 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

新刊!分県登山ガイド『愛知県の山』

 東海白樺山岳会の会員が多数取材執筆に参画しています。執筆者8名中6名が会員です。8名中4名は旧版からひきつづき担当してもらいました。新たな4名が加わりました。旧版では11名が分担しましたが退会、死去、高齢化で入れ代りを余儀なくされました。
 2005年の旧版から12年経過し、再度取材して内容を改めました。採用する山座数を減らして主要山岳のバリエーションコースのガイドを増やしています。ページ数は減っていません。これまで登った山でも別のルートから、季節を違えて登りたい向きには便利になったと思います。
 交通アクセスは新東名が開通して奥三河の山々の利便性が増しています。特に県外からの登山者には便利になったと思います。
 6月23日から書店の店頭に並んでいると思います。一度は手にとってご覧ください。
 旧版にも増して愛用されるように祈ります。

[ 2017年06月24日 10:53 ] ガイドブック | TB(0) | CM(0)

加藤幸彦『絶対に死なないー最強の登山家の生き方』に学ぶ

 山岳遭難が年々増加するばかりだ。さきのGWでは27人も死んでいる。去る5/20の日本山岳会東海支部の総会でも、高橋支部長はあらゆるスポーツでこんなにも死人が多いのはおかしい、と断じた。まったくその通りである。だが、その防止策となると的確な方策はないに等しい。結局は素直に過去の先人に学ぶことになる。

 剣岳で名古屋山岳会の会員が三の窓で遭難死されたことをきっかけに考えてみた。より困難をとアルピ二ズムを実践する立派な山岳会であるがこのところ事故が多すぎる。大先輩の加藤幸彦が活躍していたころはこんなにも事故はなかった。彼の著作を読み返してみた。何度も読み返すも教訓的な言葉を引き出すのは難しかった。何度目かを読んだ際にP36の小見出し「臆病さが万全の策を呼ぶ」というのが目についた。
 ある登攀で指を凍傷でやられた。この凍傷に懲りて万全の凍傷防止策を講じた。他人からは「臆病者」と笑われたそうだ。P38の文を引こう。

 命ある限り、失敗は貴重な経験として次の機会に生かされる。しかし、「失敗に懲りる」という深い痛手を負わなければ、次もまた同じ失敗を繰り返さないとも限らない。慎重さの裏には臆病さが存在する。経験を積めば積むほど臆病になる。その臆病さが常に最悪の事態を想定し、万全の対策を練り上げるのだ。

 「危険は回避すべきものであり、困難は克服すべきもの」。これは私が幾多の登山経験から学んだ教訓である。ところが、体力の限界に達すると両者の区別がつきにくくなる。しかも危険な場所は一見たやすそうに見えるから要注意だ。疲労で頭がぼんやりすると判断はあいまいになり、体は楽な方へと流れたくなる。

他人に笑われても、臆病者であれ、と自分に言い聞かせていた。笑っていた人は凍傷になったそうだ。

加藤幸彦は1933年生まれ、2011年7月死去。享年78歳。



臆病であること。そして危険は回避すべきもの、困難は克服すべきもの。至ってシンプルだが真実であろう。すると、名古屋山岳会の創立者の跡部昌三の言葉につがるではないか。
「悪天候は人を死地に追い込むためにあるのではないということである。厳冬1月も寒冷さ、風雪の狂う高所では、人の生存を拒否しているようであるがそこへ登ろうとするものは、それがどのようなものかは、すでに分かっているはずである。また、それに立ち向かう自由と、さける自由は登山者自身に許されている」
 「その五体を安全に守ってくれるのが、山の常識であり、山の技術である。知識だけではなく、ことにのぞんで反射的に行使されるまでに身についていなくてはならない。それは何も高度な技術を要求していない。要するに山での危険というものは、山にあるのではなくて登山者自身にのうちにある、ということを、はっきり知っておくことである。」
[ 2017年05月23日 23:40 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

日本の山には「何か」がいる!・・・続く『山怪』ブーム

ソース:日本の山には「何か」がいる!・・・続く『山怪』ブーム
 山にまつわる不思議な話や体験談を集めた『 山怪 さんかい 』(山と渓谷社)が注目されている。刊行から約1年半で9万部を超えるなど、この種の出版物としては異例のベストセラーになっている。1月中旬には続編の『山怪  弐 に 』が出され、すでに3刷、3万5000部に達している。著者は、30年以上にわたって秋田の 阿仁 あに マタギなど各地の猟師を追い続けてきたフリーカメラマンの田中康弘さん(58)。なぜ『山怪』が受けているのか。出版の経緯を著者に聞くとともに、広く受け入れられている理由などを探った。

雪の中に突然姿を現し、消えた「夜店」

 今から40年ほど前、秋田県・旧阿仁町打当内うっとうない(現・北秋田市)に住む泉健太郎さんが中学生の頃の話。クラブ活動で遅くなった泉さんは、学校からの帰路、打当内へと曲がる辻つじに差しかかった。その辻の辺りは、昔から狐きつねの住処すみかと言い伝えられている鬱蒼うっそうとした場所だった。

 ある冬の日、いつものようにとっぷりと日が暮れて暗くなった帰り道。雪明りだけが頼りの寒い日だった。いつものように辻に近づく。

 「本当にあそこは怖かったもんなあ、暗くてよ。でもあの日は、そこさ曲がって、ぱって前見て驚いたんだぁ」

 泉少年が見たものは明るい光の列だった。

 「いやあ、明るくてな。見たら夜店が出てるんだぁ。靴屋とか玩具屋とか五、六軒あったんじゃないかなあ。あれぇ、今日はお祭の日だったかなあって、しばらくその店を眺めてたんだぁ」

 雪の中に突然姿を現した明るい店に見とれていると、その光が急に消えた。まるでいきなり停電にでもなったかのようだった。

 「えっ?」

 泉少年が呆気あっけにとられる。そこにはいつものように暗い雪景色が広がっているだけだった。

(『山怪』収録の「楽しい夜店」から)
 「山怪」とは、山の怪異のこと。狐や狸たぬきに化かされた話、神隠し、臨死体験、人魂ひとだまや狐火、大蛇の目撃談などが『山怪』には53話、続編の『山怪 弐』では78話にまとめられている。副題は「山人が語る不思議な話」で、猟師や林業関係者、民宿経営者、修験者など、山に暮らす人々から取材した。多彩な怪異譚たんが集められていることから、「現代版遠野物語」とも呼ばれる。
中略
名著『黒部の山賊』復刊もきっかけに

 山と渓谷社の編集者で、現在、同社主幹を務める勝峰富雄さん(51)との出会いも大きかった。勝峰さんは、2014年3月に“復刊”した『定本 黒部の山賊』の担当編集者だった。同書は、知る人ぞ知る山岳書の名著だが、自費出版のため、それまでは著者の伊藤正一さんが経営に携わる山小屋でしか買えない“幻の本”だった。

 この本の副題は「アルプスの怪」で、北アルプスの戦後間もない登山黎明期に、黒部の源流部で跋扈する「山賊たち」と「山の怪異」を描いた記録。『山怪』は一部、『黒部の山賊』に通じるものがあった。別の企画を一緒に進めていた田中さんから、「実は、こんな原稿を書いている」と相談され、書きかけの原稿を読んだ瞬間、「これはいける」と直感したという。

 『山怪』の読者層には女性も多く、中高年の男性を中心にして、幅広く受け入れられている。多くの人に読まれている理由について、田中さんは「まったく分からない。ただ、人は不思議なもの、怖いものにひかれる。怖がらせようとは意識していないが、これまでとは違った味付けの本になっているため、受けたのではないか」。勝峰さんは「日本は山国であり、闇がある。都会で暮らしてはいても、地方出身の人は子どもの頃、そんな闇を経験している。この本で、そのときの恐ろしかった感覚を思い出すのかもしれない。文章が作為的ではなく、自然なのも良かったのでは」と指摘する。

 ベストセラーの理由について、狩猟文化と山村の現状にくわしい田口洋美・東北芸術工科大学教授は「震災や災害などが続き、自然の怖さ、自然の不思議さに興味を持つ人が多いのではないか。体験談を集めたものなので、リアリティーがある。『遠野物語』が出たときの驚きと同じように、都会に暮らす人たちに受けているのかもしれない」と語っている。

 柳田国男が『遠野物語』の序文に、「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」と書いてから100年余り。日本の山は今も変わらず、われわれ“平地人”を驚かせる怪異譚に満ちている。

引用以上。以下はソースにアクセス。
   

私も田舎生まれの田舎育ちなので子供時分から怪異な話は聞いたことがある。長じて登山をやるようになり柳田国男の著作に親しみ、講談社に『柳田國男全集』の刊行希望を出したこともあった。実際に筑摩書房から発刊が始まると全巻を揃えた。中でも『山の人生』は奥三河や奥美濃の話も取り上げられていてたまに読む。
さて、この本が9万部を記録したと知って驚いた。さらに続編もこの度に発刊された。書店で手にするが購入するまではなかった。私にとって目新しいテーマではないからだろう。類書は多数あるのになぜこんなに売れるのかが怪である。著者自身も不思議がっているくらいである。
私の推察であるが、著者が現場で直接取材採集しているからだろう。それが分かる文になっているからと思う。文中から引用すると「体験談は、可能な限り実名にした。「匿名の作り話ならいくらでもできる。これまで延々とやってきた取材の延長上にあるものなので、実名にこだわった。匿名にした話もあるが、まだ遺族がいるとか、子どもが関係しているような場合です。あと、山小屋と避難小屋は名前を出しませんでした。名前を特定すると、怖くて入れなくなるからやめてくれと言われたので」と笑う。」
例えば山岳雑誌『岳人』で奥秩父のミステリーを扱う特集があった。その何年か後に別のライターが日付などを少し違えて再録されたことがあった。明らかに剽窃と思い、編集部に抗議したことがあった。新聞記者でも作家でも巧妙に剽窃する。柳田國男は奥飛騨の親子3人が1杯の蕎麦を分け合う日本風の民話をこれは英国の民話の剽窃と見破ったという。
読者を感動させる出版物には偽物も多い。購入を遅らせているのはそんな懸念があったからでもある。この記事で実名を記載して信憑性を高めていることが分かった。正編だけでも購入して読んでみたい。





[ 2017年02月18日 17:33 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

赤沼千尋『山の天辺』を読む

 赤沼千尋は黎明期の北アルプスの燕岳に登山小屋を建設した人である。『山の天辺』(昭和50年、東峰書房)は折々に書いた随想集の体裁となっている。扉には畦地梅太郎の版画「雪渓に立つ」「燕山荘」が挿入されている。序文は『たった1人の山』の浦松佐美太郎が書いた。
 今回特に書き残したいのは、「山男と遭難」の文に山小屋経営者ならではの秀逸なエピソードがあるのを見つけたからだ。
抜粋すると
「人生ことごとく運である。
山岳遭難もまた運である。」

「ことに雪山、それは荒れた日には、眼も開けられぬ恐ろしさに総毛立つ魔者となり、晴れた日と雪崩と言う武器で、音もなく襲いかかる狡猾な肉食獣となることがある。登山する人間にとって、このような山の災厄から逃れられる唯一の道は、天候などの条件のよい日に登山する以外はない。
 そして、早く登山したいはやる心を押さえながら、良い天候を待ち続ける忍耐心と、待ちに待つ時間がとれるかどうかということが問題なのである。
 冬山は夏山とは違った生き物である。景観も通路も異なり、気象に一喜一憂しなければ、あっと言う間に風雪に吹かれて道に迷い込み、或いは雪崩の巻き込まれるのである」

 黒部の一帯を映画に撮影した名古屋の登山家・伊藤孝一著『狸囃子』からの引用から
「流動を停止した雪崩は、人間の眼には解らないが、停止と同時に力強い圧縮を開始するものである。故に、雪崩れている最中か、又は停止直後に、雪の中から泳ぎ出るか、或いは助け出されルカでなければ、忌まわしい結果が生じる。以下略」
「その夜、(佐伯)平蔵が雪崩に衝かれたら、押されるままにしていてはならぬ。足は飛んだり跳ねたり、手は眼の前を掻いて泳ぐように動かし続けることを忘れるな、と戒めた語り草は、生新しい体験が生んだ不滅の金言として、炉辺に居並ぶ全員の心の髄まで染み込んだ。」

 次は百瀬慎太郎遺稿集『山を想えば』からの引用
「前略、雪崩れに遭った時はいちはやくスキーを脱ぐ事が肝要だと言われる。これが咄嗟の場合によく行われ得る事だろうか。山田二郎氏(筆者注:慶応大学山岳部OB,マナスル隊員、元JAC会長)もこの試みを直ちに実行しようとして、右足のスキービンディングを脱いだ瞬間やられたのであった。それほど雪崩のスピードは速いものであった・・・。」

 以上の引用の後で赤沼自身の言葉は
「こんなエキスパートでも責任感が厚く、良い人たちが雪山に消えて行ったのである。今時の装備と比べれば誠にプリミティブなものであったが、然し登山の熱意と鍛錬並びに事前の準備は大変なものであった。それにも拘らず遭難した。そこには何か抗し難い運命のようなものが感ぜられる。」
と結んだ。
 単に思い出話や自慢話に終始しないで山と人生を語った名著の予感がする。今のところ本書は古書でしか入手できない。(愛知県図書館の横断検索をかけても1冊も蔵書がなかった。)中公文庫、岩波文庫辺りが文庫本化して欲しい。
 他に登山史から忘れられたような伊藤孝一の親友でもある。伊藤は厳冬期の北アルプスを縦走且つ映画撮影行という破天荒な登山家だった。赤沼は黒部の精通者として百瀬慎太郎とともに案内人役で同行した証人である。
  
評伝 
 
 伝記小説





[ 2016年12月30日 10:16 ] 山岳名著 | TB(0) | CM(0)

山の本97巻

9月15日発売の97巻の特集は「私の心をとらえた山の本」であった。
本は1年中読むが、秋は涼しくなり、夜長を楽しむには読書が相応しい。
そんなわけで読書の秋への案内である。
巻頭をかざるのは横山厚夫氏の「私を育てた山の本」で読み応えがある。
他、様々なジャンルの登山家が自分なりの山の本を書いている。
「読者が推薦する山岳図書」には筆者の拙稿が2本掲載された。
編集者はステレオタイプになるのを避けてあえて山岳名著を挙げなかった。
山岳名著だけで1冊の本になるくらいのボリュームがあり、知識を得られる。
本の知識ではなく、自分とのかかわりに絞ったのである。

「山と溪谷」「岳人」などはトレンド誌として流行を追いかける。
長い登山者生活を過ごすうちに服装、持ち物、技術、などなどいつしか付いていけなくなる。
本書の編集方針は昭和時代に立ち止まってじっくり山を味わいたい登山者向けなのだろう。
だからと言って情報は古くはなく新しい。
人が見向きもしない静かな山、人に会わないコースを常に掲載する。
東京や大阪だとこんな視点が必要であるが東海地方の山は一部を除けばなべて静かである。
つくづく恵まれているんだなと思う。
[ 2016年09月15日 08:04 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)

豊野則夫編著『東北・上信越・北アルプス沢登り銘渓62選』

 最近はバリエーションルート紹介の文献が復刻ブームの感がある。昨年の白水社『日本登山体系』の普及版での復刻にはちょっと驚いた。データは古いが大きく地形を損なわない限りは利用できる。しかし、沢登り関係は時をおいて最新のガイドが出版されるのは心強い。
 2016年7月には山と渓谷社から沢のガイドの最新版が出た。東北・上信越・日本アルプスから62の銘渓が選定された。日本アルプスが南限となっているのは編著者の豊野則夫氏の好みの問題であろう。豊野氏は白山書房から『北アルプスの沢』の編著にも当る。40年以上沢登りにこだわってきたこの分野のエクスパートである。さすがの豊野氏も66歳になり、これが最後になると書いている。当方も67歳となり昨年の北ア・打込谷では加齢の衰えをいやというほど味わった。もう沢登りを止めようかと思ったがピークハントのみではモチベーションが続かない。本書を読むとまだ1つ2つはやれそうな沢があるので希望をつなぐ。鈴鹿、奥三河、台高、奥美濃など近場の沢で技術や体力を養いながらいつかは紹介された銘渓の1つを目指したいもの。ヤマケイ特有のきれいな写真も豊富に挿入されて読みやすく編集されているので見るだけでも楽しい。



[ 2016年09月07日 17:01 ] 出版案内 | TB(0) | CM(0)
プロフィール

東海白樺山岳会

Author:東海白樺山岳会
 1962(昭和37)年に名古屋市交通局の有志数名が設立。その後一般社会人の親睦の登山クラブとして継承されてきた。40歳代から80歳代の男女約24名(2016年11月現在)が年間を通じて計画的に実践。
 三河、美濃、鈴鹿の日帰り登山、岩登り、沢登り、山スキー、冬山以外にも夏山縦走も楽しむ。皆で誘い合い日本百名山、日本三百名山を目指す会員もいる。個人の志向でぎふ百山、信州百名山、富山百山、一等三角点のピークハントを目標にする会員もいる。
 例会は第1水曜日(都合で火曜日になることがある)に名古屋市中区生涯教育センターで夜7時から8時30分まで。会合は山行への参加を募る重要な場なのでなるだけ出席を。欠席者にはメール、郵便、ファクスで伝達。会報も年間4回発行。総会(事業報告、役員改選、会計報告、規約改正など)は4月に実施。
 イベントは1月の新年会(町)新入会員の入会に応じて新人歓迎会(山で)、年末は忘年山行(1泊2日)、登山、岩登りの初心者の指導練習も適宜練達者のリードで実施。
 会費年間3000円。入会金2000円。別途山岳共済保険加入のための岳連会費と保険料要。現在会員募集中。問合先090-4857-9130西山まで。メールフォームからもどうぞ。

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